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吉崎地区周辺の観光情報

最終更新日 2019年8月16日| ページID 000729 印刷する

吉崎地区周辺の観光情報

弁天島

弁天島は、越前加賀海岸国定公園の中、福井県・石川県境にある美しい小島で、陸続きなので、島に渡ることができます。県境、福井県最北端にあるその島には、頂上に小さな祠があります。
子供の頃の思い出です、お兄ちゃん達と遊びに行った時、祠の周りに自生するススキの葉を切り取り、利き手でない方の手で祠の格子戸の格子に結ぶと願いが叶うとの言い伝えがあり、行く度ごとに毎回結んだものです。中学生の頃にもなると、色気付き恋が叶うと願い、数え切れないほどを結びました。
また、弁天島外海側に、「百人倒し」と言われる大きな洞窟があり、その付近では海流が乱れ危険だと言われて、私たち子供は、近づかないようにしていました。「百人倒し」とは、灯りの無い昔、漁船・北前船などが、荒天と暗闇の中間違えて吸い寄せられるように穴に入って行ってしまい、人が死んだ場所と聞かされ怖くて近づけなかったという覚えがあります。大人になって行って見ると、それ程大きくもなく洞窟の中は砂でいっぱいでした。
「七人倒し」と言われる洞窟は、弁天島の端にあり、昭和に入ってからだと思いますが、荒天で漁船が誤って穴に突っ込み7名が亡くなったと聞かされています。子供の頃、壊れた船が廃船としてあったように記憶しています。洞窟天井には、海ツバメの巣があり皆で取りに行った事など、たくさんの楽しい思い出が弁天島にはあります。
 

塩屋から見る弁天島 弁天島の斜面

弁天島の上にあるほこら 弁天島の反対斜面

鯨塚

  • 碑石高 76センチメートル 幅25センチメートル 厚24センチメートル
  • 建立年月日 文化9年1月11日
  • 建立場所 あわら市浜坂

私が、小学校低学年の頃だったと思います、夏休み、毎日のように泳ぎに行った瀬際から弁天島に向かう途中の崖下に、確か誰とは無しに「鯨の墓があるよ」と言い聞かされていました。浜坂の305号線を、吉崎に向かって進み開田橋の手前で左へ折れ小さな路地を入ると民家や船着場が立ち並び、そこを日本海側に900メートルほど進んだところからさらに草木をより分けて、緩やかな坂を10メートルほど登ると小さな墓石らしいものが見えます、それが鯨塚の碑です。
江戸時代、この辺りには船着場や番所があって、この緩やかな坂を「ごまん坂」と呼んでいました。コナゴを運ぶと、一荷ごとに5文の駄賃をもらったことから「5文坂」といい、それがなまって「ごまん坂」と、言われるようになったと伝えられています。
旧芦原町の、教育委員会が郷土カルタを作るために鯨塚の調査に出かけた時のことです。地元の人に、案内をしていただきましたが草木が茂り、見つけるまでに半日かかってしまいました。そこで、郷土カルタの鯨塚の読み句は、「草と木につつまれて在る鯨塚」と詠まれました。
当時(文化9年1812年頃)浜坂は、約170戸700人の大きな漁村でした。その頃に、天候不順で不漁や凶作が相次ぎ、平和な村は苦しい生活に一変したといわれています。旧芦原町史によると、鯨塚建立の前年の文化8年に一揆と思われる事件が発生していると記載されています。そんな時、一頭の大鯨が浜坂の浜に迷い込んできました。浦人は狂喜してその大鯨を捕獲して食料としました、この大鯨一頭のおかげで浦人は10日も飢えをしのいだと伝えられています。大鯨を一頭捕れば7浦(漁村)が潤うといわれ、古来、人々は鯨を「福を呼ぶ神様」として信仰したり、捕鯨地に供養塔を建てたりして鯨に特別な思いを寄せていました。
県内には浜坂の他、小浜線の本郷駅と和田駅の中程の青戸入江に面して、鯨の供養塚が立っています。鯨の供養塚は、日本海側には珍しいといわれています。

塩屋海岸

弁天島の対岸は、小さな漁村「石川県加賀市塩屋町」です。間をはさんで流れる大聖寺川が県境になっています。塩屋漁港は古くから知られる漁港で、風情のある町です。砂浜は昔、海水浴場になっていましたが、夏は今でも家族連れで賑わう場所です。

塩屋海岸

場所情報

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