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2月20日更新 にっぽん旅ごはん

最終更新日 2024年2月1日| ページID 007474 印刷する
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番組内容

坂ノ下宿場口跡(あわら市指定文化財:史跡)

金津町は、慶長7(1602)年頃に結城秀康によって定められた北陸街道の15宿駅のひとつで、街中を通り抜ける街道沿いには多くの旅籠屋が軒を連ねる宿場町でした。東西に町を横切って流れる竹田川を境に、北の北金津と南は南金津・新町に分かれていました。安永2(1773)年頃と推定される「村鏡」などによると、水口町・十日町・八日町・坂ノ下町からなる北金津の戸口は、家数411軒、人数1,394人で、往還沿いには旅籠屋60軒・揚屋20軒・遊女持7軒が店を構えて、宿場町の風情を漂わせ、そのほかに豆腐屋(2軒)、紺屋(3軒)、油屋(6軒)、大工(5軒)、鍛冶屋(7軒)、桶屋(6軒)、木挽(4軒)、毛貫屋(1軒)などの職人や商人の家々もありました。そして坂ノ下町には願泉寺と明善寺があり、願泉寺の少し西に本陣大文字屋(黒坂家)、東寄りにはもと大聖寺藩医の笹岡玄察の屋敷もありました。
この坂ノ下の宿場北口跡には、観音堂・地蔵堂・不動明王堂・題目塔・名号塔などが友平山裾の細い坂道に沿うように点在し、旧街道の面影を漂わせています。この坂を上り、北に向かうと大きな榎が立つ福井県指定文化財・千束一里塚も残っています。

坂ノ下宿場口跡については、こちらをご覧ください。(新しいウインドウが開きます)

千束一里塚(福井県指定文化財:史跡)

慶長9(1604)年 、江戸幕府は東海、東山、北陸の諸街道を整備し、江戸日本橋を起点に一里塚を造らせました。一里塚の目的は、各地への里程と人馬賃の目安とし、旅人の便宜を図ったものとのことです。
北陸道の道幅は三間(約5.5メートル)で、一里ごとに道の両側に五間(約9.1メートル)四方の塚を造り、塚が崩れないように榎等を植えました。千束一里塚は、当初東側に2本、西側に1本の榎があり、旅人は木陰でしばしの休息を楽しんだとされています。明治以降、道路が拡張された際、東側の一里塚が取り壊されたので、現在は西側の一里塚だけが残されています。
これより北に細呂木の一里塚と宿場があり、南には坂井市坂井町下関に一里塚が残ります。

千束一里塚については、こちらをご覧ください。(新しいウインドウが開きます)

カフェ・レストラン「オレンジ」

定食・丼・オムライス・ピラフ・スパゲティ・グラタン・ドリアまで約100種類のメニューでお客様をお待ちいたしております。メニューはたえず新しいものを取り入れる用日々努力しています。毎日来ても飽きないものをお出しできるようスタッフ一同頑張っています。

住所:福井県あわら市大溝二丁目31-1
TEL:0776-73-2489
営業時間:午前10時~午後11時(月曜日~土曜日)、午前10時~午後9時(日曜日・祝日)
定休日:1月1日のみ

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