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千束一里塚

最終更新日 2014年11月26日| ページID 006118 印刷する

概説

慶長9(1604)年 、江戸幕府は東海、東山、北陸の諸街道を整備し、江戸日本橋を起点に一里塚を造らせました。一里塚の目的は、各地への里程と人馬賃の目安とし、旅人の便宜を図ったものとのことです。
北陸道の道幅は三間(約5.5メートル)で、一里ごとに道の両側に五間(約9.1メートル)四方の塚を造り、塚が崩れないように榎等を植えました。千束一里塚は、当初東側に2本、西側に1本の榎があり、旅人は木陰でしばしの休息を楽しんだとされています。明治以降、道路が拡張された際、東側の一里塚が取り壊されたので、現在は西側の一里塚だけが残されています。
これより北に細呂木の一里塚と宿場があり、南には坂井市坂井町下関に一里塚が残ります。

概要

千束一里塚
指定区分福井県指定文化財(史跡)
所在地福井県あわら市花乃杜三丁目
指定年月日平成2年5月8日
所有者・管理者千束区

場所情報

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