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吉崎御坊跡(国の指定史跡)周辺の観光情報

最終更新日 2010年5月20日| ページID 000655 印刷する

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吉崎御坊跡とその周辺の観光情報

福井県の最北端、あわら市吉崎公民館では、吉崎地区およびその周辺の観光情報を発信しています。「吉崎の郷土史」(平成11年2月発行)からいろいろな歴史情報も発信しています。魅力ある「吉崎」の自然と歴史に、是非触れてみてください。
福井県あわら市吉崎公民館のページはこちらからご覧ください。

国指定史跡「吉崎御坊跡」(吉崎御山)

「吉崎に観光で来て、御山を見ないで帰る人が多い。しかしそれは、お寺へ行って御本尊を拝まないで帰るようなものである。」そう言われているこの「吉崎御山」こそが吉崎観光第一の目玉です。
広い松林の中に高村光雲の名作「蓮如上人像」があり、雑木の合間から見える景色では、天然記念物「鹿島の森」など、吉崎を北潟湖が囲み、その遥か彼方に日本海を望むことができます。四季折々、この眺めは見事で、春には桜が見事に咲きまくり、夏は太陽の光を貰いきらめく北潟湖面、秋は色づく木々に心も和み、冬は空高く飛び渡る雁の群れと日本海の激しさが伝わる景色、隠れた景勝地と呼ばれています。
また、浄土真宗第8代法主「蓮如」ゆかりの史跡も多くあり、昔を偲び、ふと句を詠みたくなるような自然いっぱいの「吉崎」です。 

蓮如上人像 

この銅像は、東京美術学校教授帝室技術員・高村光雲(1852~1934)の作で、亀山上皇、大楠公、大西郷の銅像と共に光雲四大作の一に数えられています。銅像の高さ5メ-トル・御影石の台座約7メ-トル、昭和9年10月完成し光暢上人が導師となって除幕式が行なわれました。
御在世のひび御足を偲び泣く、句佛上人銅像建設の発起者は丸岡町の酒井正造・笹野伊佐吉・吉崎の七郎丸勇の諸氏で今上天皇御即位の大典を記念して越前加賀等各地の信者から多くの浄財を得て建設されました。そのとき、東西両別院の防火用貯水池も寄進されました。

吉崎御坊本堂跡

文明3年5月吉崎へ下向された蓮如上人は、この御山の地形が大変よいとして原始林を伐り開き整地をして7月27日から門徒衆の働きにより、かたのごとく御坊を建立し諸国から集まる多くの門徒に真宗の御法をおときになりました。
照西寺(滋賀県多賀町)の古絵図によると、本堂は南面し桂五間四面正面中央に向拝があって中に御本尊と親鸞聖人の御影像を安置し本堂の西側に庫裏と書院がありました、吉崎御坊は1474年(文明6年)3月28日火難にあい、その後再建したが翌年8月21日再び戦国の動乱で焼失し上人は4年余りで吉崎を退去されました。
その後、永世2年(1506)三度火災にかかり御坊跡は荒廃のままとなりました。 

お腰掛けの石

この石は、蓮如上人御在世の当時から吉崎御坊の中にあったもので、文明6年の「吉崎山絵図」の中に描かれているのは、この石であろうといわれています。その古絵図は、蓮如上人が二人の弟子を伴い本坊の後の石に腰を掛けて対岸の鹿島や波松のあたりの景色を、ご覧になっているところです。それから500余年の月日が流れた今も、この石を見て蓮如上人の御得をお慕いする信者が絶えません。

御山から眺める鹿島の森

鹿島は今、石川県加賀市がその所在地となります。
もとは河口に臨んだ独立の島であったが、大聖寺川の土砂の堆積によっていつしか地続きになりました。老樹がこんもりと茂っていて御山から眺めがよく、鹿島明神をまつる神秘の島です。文明12年、8月3日の大乗院寺社雑事記の古図には「カカシマ」と書かれ、「加賀島」を略して「賀島」となったようです。「鹿島」と書くようになったのは、近世になってからのことです。

この島については、次のような民話があります。
昔、吉崎の潟のほとりで、一人の婆さんが洗濯をしていました、そこへ妙なものが流れてきました、邪魔になったので近くにあった物干竿で向こうへ押しやると、押せば押すほどその妙なものはだんだん大きくなって、やがて島になりました、これが鹿島です。
さあ、こうなると島は越前のものか加賀のものかと大きな争いになりました。
結局、奉行所へ訴えて出た、その時、越前側の者がうっかり口をすべらして「実は加賀の鹿島のことで参りました」と言ったので、奉行所の役人から「越前の者が、加賀のことについて何の用があるのだ。鹿島が加賀のものになっているなら何も問題はないではないか」と言われて、どうにも返答のしようがなく、訴えは無効になって、すごすご引きさがったということです。

また、蓮如上人は鹿島について次のような句を詠んでいます。
「鹿島山とまり鳥の声きけば 今日も暮れぬと告げわたるなり」

見玉尼のお墓

見玉尼は蓮如上人の第三女で母は伊勢氏平貞房の娘如了です。1448年(文安5年)の生まれで7才で母を失い禅寺へ喝食にやられ後京都吉田の浄土宗攝受庵見秀尼の弟子となりました。文明2年、文明3年と続いて伯母と姉を失い、文明3年の5月、父蓮如上人を慕って吉崎へ来られたが間もなく病にかかり8月14日26才の若さで没しました。その間に、吉崎御坊の完成を見て喜び真宗の安心を得て往生しました。
上人は御文の中に「8月15日の茶毘の暁方の夢に、白骨の中から全佛が現われ蝶になって涅槃の都へ飛んでゆくのが見えた」と記されています。

本光坊のお墓

吉崎の御山にあった多屋九坊の一に本向寺(足羽郡市波元の寺号本光寺)了顕の坊舎がありました、了顕が蓮如上人につかえていると文明6年3月28日夕方南大門付近の多屋から出火して吉崎御坊は猛火に包まれました。上人は親鸞聖人御真筆の教行信了顕六巻の中信の巻を机の上に置いたまま持出せなかった、これを知った了顕(39才)は猛火の中へ飛び入り証教を抱えたまま壮烈な殉教の死を遂げたと伝えられています。
京都西本願寺所蔵の教行信証信の巻は「腹ごもりの聖教」とも呼ばれ昭和50年6月重要文化財に指定されました。

お手植えの松

この古い幹の切り株は、蓮如上人が吉崎に御坊を建てられたとき御自分で植えられた松の木の根もとであると伝えられています。1838年(天保9年)の夏の初め広如上人(明治4年没)が江戸へ行かれる途中吉崎でお泊まりになり「吉崎の遺跡を拝し」と題して
「花松の みあとを訪へば 十かへりの春にもあへる 心地こそすれ」
と詠まれたのは、このお手植の松です。その後、元のお花松が枯れたので代替の若松を植え、それが成長して今のお花松になりました。

加賀の千代女の句碑

「うつむいた 処が台や 菫草」 尼素園
千代女は、元禄の候の有名な俳人で加賀の国松任(白山市)の増屋六兵衛の娘として生まれ、長じて金沢藩の足軽福岡弥八と結婚したが、早く夫と死別した不遇の女性でした。幼い頃から俳句をたしなみ、また熱心な浄土真宗の信者でした。1762年(宝暦十二年)3月25日に、かねてから念願の吉崎蓮如忌に参詣しをいたしました。当時の御忌は二十五日を正忌て七日間 でした。千代女は加州街道から、加賀吉崎の化生ヶ市に入り、遊女たちが肌もあらわに床几に腰かけてはしゃいでいるのを見て、慎ましやかな千代女は、
「涼しさや はずかしほど ゆきもどり」
と一句を詠みました。ここをなんとか通抜けて吉崎御坊に詣で、御山の霊域を散策し、「けうというけう、はじめて吉崎にまうでける、そのうれしさ、ありがたさのあまり」と題して詠んだのが前記の句です。また、御山の旧庭園跡の展望所から鹿島の森が湖面にうつる景色を見て
「鴬の どちらが鳴くぞ 水の影」、「汐越の 松や小蝶の なかもどり」
の二句も残していきました。 

一字一石墳

細呂木から吉崎への山道を行くと、吉崎の村近くの路傍に「一字一石墳」と刻んだ塚があります。一字一石は経塚の一種で、川原石に経典を書写して埋蔵したものです。これは仏教の信仰によるもので、仏の慈悲と恵みによって安住を請い願いその供養のために営んだものであります。
この塚は明治18年9月に福井の永田市兵衛が仏恩報謝のために浄土三部の妙典(大無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)全巻を一石に一字ずつ書写し地下に埋蔵し、その上に石碑を立てたものです。碑の側面には
「布施無くて石に経文かくときは 南無阿弥陀仏を唱えよ」
と書かれてあり、また、隣の祠の中には聖徳太子の御年16才の石像をおまつりしてあります。

一字一石墳 一字一石墳 一字一石墳

吉崎春日神社

春日神社は、もと四八字春日山にありました。その四八字は、細呂木寄りの所で、今は山と畑になっていますが、以前はその畑に社の礎石も散らばっていましたし、幟建という地籍名も片山津ゴルフ場西コ-スの裏側辺りに残っています。500年前、蓮如上人在世の頃、ここに春日神社がありました。諸神諸仏を大切にした上人のことでありますから、お宮の前を通られた時はいつも敬拝されたことでしょう。
吉崎の春日神社は、その後、江戸時代の1840年(天保11年)に、現在地の吉崎村八字宮ノ森に遷座されて、太平洋戦中の1940年に、盛大に春日神社遷宮100年祭が行われました。
今の吉崎春日神社の鳥居に、1701年(元禄14年)と彫ってありますが、この鳥居は春日山から移したもので、こんな古い元禄鳥居は、県内でも滅多に見られない貴重な遺産です。

本殿

祭神 天児屋根命
神話によると祭神天児屋根命 は天照大神が天岩屋にこもられたとき、神木に鏡と玉と弊を取付て岩戸の前で大祝詞を奏上お出ましを祈られたという。そして天孫瓊々杵尊のお伴をして大八洲に降臨し代々朝廷に仕えて、祭祀と国政に参与しその子孫の中臣鎌足に藤原の姓を賜りました。
奈良の興福寺は荘園の守護神として春日神社を祀 り、平安時代の1110年(天永元年)2月に、河口庄内へ春日神社 を勤請したが、その時吉崎にも祀 りました。
現在の春日神社本殿 前口2間3尺 

春日神社鳥居 春日神社本殿

春日神社本殿 貸すが神社本殿

金毘羅宮

祭神 金山彦命

金毘羅宮 金毘羅宮

稲荷神社

祭神 蒼稲魂命
もと吉崎西別院の近くにあったお宮で、1797年(寛政9年)に、西別院の地所拡張の時、和田助右ヱ門が、その社地を購入して西別院 へ寄付し、稲荷神社を春日神社の境内社に遷座いたしました。

稲荷神社 稲荷神社

石山観音(岩崎観音)

幕末慶応の頃、西御坊下の船頭詰所で、水上安全・家内幸福を願って、岩崎の岩室に観音さまを安置する話がもちあがりました。その夜のこと、船頭某の枕元に「われは蓮如の母でござります。観音さまをおたてになるなら、蓮如ゆかりの石山観音をおたてくだされよ。」といって立ち去りました。この話を聞いた船頭衆は、石山観世音像を刻むこととし、石工は、近江国石山寺へ出向いて石山観世音菩薩そっくりの石仏をつくり岩室に安置しました。その観世音は左手の手のひらを上にして、左脚の上に載せている石山観音のお姿です。以来、毎年8月18日に観音祭を催し、現在も伝承されています。また、船稼業の人達もそれぞれの願いを込めて、如意輪観音・普賢菩薩・子育観音・知恵の文殊菩薩・薬師観音・勢至菩薩など、海上安全の船霊宮の石仏を建立し、これらの石仏群を、村人は岩崎観音と呼ぶようになりました。

岩崎観音 岩崎観音群

岩崎観音群 岩崎観音

参考ページ(吉崎公民館内リンク)

吉崎の民話(吉崎の七不思議) 

親鸞上人の越後の七不思議のように、吉崎にも蓮如上人ゆかりの七不思議があります。これは仏教の霊跡にはよくあることで、いろいろの奇端があらわれたという伝説です。これは、上人の偉大な徳化をたたえ、その恩徳を謝するあまりに、後世の人々から附会されたものと解すべきでしょう。
旧跡吉崎の七不思議をご紹介いたします。

その1 鹿島明神の鹿

蓮如上人が文明三年七月十六日、越前と加賀の境の細呂宜の郷を通られました。そこには、小高い山があり吉崎山といいました。山の麓に一匹の大きな鹿がうずくまっていて、人々を見ても逃げる様子がありません。上人はお供の人に「珍らしい鹿だ」と告げたが、他の人にはいっこうに見えませんでした。鹿は身を起して立ち上がり、上人に告げるように一声鳴いて山の方へ向い、行っては振りかえり、あたかも上人を誘っているかのように見えたそうです。
上人は、かの鹿の様子がただごとではないと思い、「この山に登って遠見をして休もう」といって鹿のあとを追いました。やがて、山上で鹿の姿は見えなくなり、ふと見ると、気高い一人の老僧が、樹下の大石の上に座っていました。そして上人を招いて座をゆずり、「ここに御堂を建てなさい、ここは過去の諸仏の転法輪の地で、真宗の繁昌は疑いないでしょう」といわれたそうです。上人が「あなたはどなたですか」とたずねると、「わたしは親鸞上人の直弟で、釈の信海と申す」といって姿が消えました。しかし、お供の人びとにはこの僧の姿も見えず、話すのも聞こえず、上人がひとりごとを言うのであやしく思ったそうです。
上人は心の中で思うよう、「むかし、開山聖人が東国を経廻のおり、常陸の国で鹿島明神が老翁の姿であらわれ、聖人の教えを受けて髪をそってもらい、衣と信海という法名をいただいたことがあるということを。かの鹿の案内といい、今の化僧の物語りといい、これはまさしく鹿島明神であろう」と、そこで、ここに坊舎を建てる決心をなされたといわれています。
(真宗懐古鈔)

その2 お筆草

蓮如上人が、この地へ教化に来られた時のことです。ある日、夕方一人の坊さんが浜坂の貧しい百姓家の門口に立って、一夜の宿を乞うた、百姓は心よくお泊めして、貧しい中にもできるだけのもてなしをしました。夏の夜はふけやすい、やがて一夜は明けて、坊さんはまたいずれかへ旅立たれることになりました。その折坊さんは、「たいへん御迷惑をかけました、おかげで温かい夢を結ぶことができました、何かお礼をしたいが、ご覧のとおりの旅僧で、なにもさし上げるような物もありません、おお、そうじゃ、筆と墨があったらお借りしたいのじゃが」と言われたそうです。
もとより貧しい百姓家のことゆえ、そうしたもののあろう筈がありません。その時坊さんは、つかつかと道端へ出て一本の野草を折りとってきて筆の代りにし、木炭をすってその炭汁で懐紙に何かさらさらと書かれました。そしてそれをお礼のしるしにして、またいずこへか立ち去られました。
あとで、そのお坊さんは蓮如上人であったことがわかり、上人の残された御名号の真筆を拝みに来る善男善女が市をなし、おかげでその百姓は暮らしが楽になり、また、上人の捨てられた筆草は翌年芽をふき、それから毎年よく繁り、土地の人々はこの裏山を筆草山と呼ぶようになったということです。
今は芦原ゴルフ場になっているが、土地の人は浜坂の裏山を見て遠山または筆草山と呼んでいます。 

その3 お腰掛の石(吉崎御山)

蓮如上人がお山におられた時、よくこの石に腰掛けられて四方の景色をご覧になられたといわれています。また、このお腰掛の石の上には、春日明神の鹿の足跡が二つのこっているともいわれ、上人が腰掛けられた時のぬくみがまだ残っているので、寒中でもこの石の上へは雪が積もらないといわれています。また積ってもすぐに消えてしまうという、それでこの石を「ほとり石」とも呼んでいます。 

その4 お花松 (吉崎御山)

蓮如上人がお山におられた時、仏様にお供えしたお花の松をさげて、お庭先きへさしておかれました。不思議にもその松は枯れずに根がついて、いきおいよく育っていきましたが、その時、上人は「この松もやがて四百年たつと枯れるだろう」といわれたそうです。果してこのお花松は今は枯れてしまったが、その材で色々な細工物をつくって今も伝えています。お花松のあとには、今御名代の松がそのまわりに何本か植えられていてその名残りをとどめています。

「花松のみあとを訪えば十かえりの 春にも会えるここちこそすれ」広如上人

その5 こなごの由来

浜坂や波松、塩屋の人びとは、昔から地びき網をひいてくらしを立てていたが、だんだん魚がとれなくなってくらしにもたいへん困るようになりました。
これを聞いた蓮如上人は、ある日、潟のほとりへ出て紙でこよりをたくさん作り、それをちぎって水に投げ入れると、それは生きものの「こなご」になって海へ泳ぎ出て、それからは「こなご」がたくさんとれて、人びとの暮らしが楽になったということです。 

その6 蓮如がに

吉崎では潟のほとりはもちろん、家々のまわりやお山の付近にも、はさみだけが赤い小さなかにがたくさんいます。
蓮如上人がおられた時、お山の御堂が二度も火事に遭って焼けました。その時たくさんの「かに」までがはせつけて火消しに当ったと言われています。それで、その時「かに」がやけどをして、はさみが赤くなったのだと土地の人はいい伝えて、その名も「蓮如がに」といわれて、吉崎意外の土地では見られないそうです。

その7 片葉の葦

蓮如上人が吉崎退去の折のことです。上人とのお別れを惜しんで見送りに出た人々は、潟の岸辺に生い繁っていた葦がじゃまになって、上人のお姿がよくおがめなかた。人々がこれを歎いて、「せめて葦の葉が横へ寄ったら、お姿がおがめるのに」といった、すると、葦の葉がさっとゆれて左右に寄ったので、その間から上人のお姿をおがむことができたといわれています。
それで、今でも吉崎の葦は片葉の葦になっているのだといわれ伝えられています。


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