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金津城溝江館跡

最終更新日 2015年12月24日| ページID 006188 印刷する

概説

溝江氏は、溝江郷南金津に根拠をもつ土着の豪族で、その名は室町時代初期に見え始めます。戦国時代初め(文明年中・1469~1486)朝倉氏が一乗谷を中心に越前の支配を強めた頃、溝江氏は朝倉氏の家臣になりました。
溝江景逸とその子長逸は代々朝倉氏に仕え(貞景、孝景、義景)、加賀の一向一揆の備えとして金津(古町字夕部)に館を構えて、しばしば一揆と戦い軍功をあげました。しかし、天正元年(1573)に朝倉氏が織田信長に滅ぼされると、翌年2月越前・加賀の一向一揆の総攻撃に合い、景逸・長逸父子および一族郎党30余人は館に火を放ち、客人富樫氏(泰俊)とともに自刃しました。
落城の難を逃れた長逸の遺児長澄(長氏)は、信長・秀吉に仕えて金津城を再興し、大名となりました。さらにその子の四代長晴は父の遺領金津を継ぎましたが、関ヶ原の戦い後所領を没収され、のちに彦根藩に仕えました。
溝江家の菩提寺は、長逸の弟辨栄が住職をしていた妙隆寺です。

概要

金津城溝江館跡
指定区分あわら市指定文化財(史跡)
所在地福井県あわら市大溝一丁目2番21号
指定年月日昭和58年3月19日
所有者・管理者妙隆寺

場所情報

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