多賀谷左近の墓
概説
多賀谷左近三経は、桃山時代の武将で、若くして下総国大田城(
秀康が越前68万石の領主になると、左近三経は秀康第一の重臣として3万石(後2千石加増)を給され、加越国境の鎮めを任ぜられました。
北陸道沿いの山十楽の島の台地に館を構え、支配の村は54村におよびました。
慶長12(1607)年4月に秀康が病死(34歳)した後、左近三経も同年7月、これまでの福井県の研究史では41歳で没したとされてきましたが、『多賀谷記』によると30歳で没したようです。亡骸は火葬され、遺骨は柿原区墓堂にある宝篋印塔に納骨されました。戒名は黔宗祥堅居士、菩提寺は柿原の専教寺です。
多賀谷家の跡目は子の泰経が継ぎましたが、大阪夏の陣後に泰経が没すると養子の弟は相続を許されず、柿原館は2代で廃止されました。しかし、後に末孫虎千代が五輪の供養塔を建立しました。平成3年3月に墓所が整備され、以後は区で管理してきましたが、現在は多賀谷左近三経公奉賛会が管理責任者に選任されて管理を行っています。
平成28年度に多賀谷左近三経石廟を復元するとともに再度墓所整備が実施されました。
概要
指定区分 | あわら市指定文化財(史跡) |
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所在地 | 福井県あわら市柿原36字40番 |
指定年月日 | 昭和48年3月15日 |
所有者・管理者 | 柿原区・多賀谷左近三経公奉賛会 |
場所情報
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