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吉崎の史跡(No2)

最終更新日:2008年11月27日

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吉崎御山の史跡紹介

お腰掛の石

この石は、蓮如上人御在世の当時から吉崎御坊の中にあったもので、文明六年(一四七四)の「吉崎山絵図」の中に描かれているのは、この石であろうと言われています。
その古絵図の中では、蓮如上人が二人の弟子を伴い本坊の後の石に腰を掛けて、対岸の鹿島や波松のあたりの景色を、ご覧になっているところが画かれています。
五百余年の月日が流れた今も、この石を見て蓮如上人御得をお慕いする信者が絶えません。

 

お腰掛の石   蓮如さんのお腰掛の石

ここから眺める北潟湖の景色は、とても素敵です

 

見玉尼のお墓

見玉尼は蓮如上人の第三女で、母は伊勢氏平貞房の娘如了、文安五年(一四四八)の生まれ七才で母を失い禅寺へ喝食にやられ、後京都吉田の浄土宗攝受庵見秀尼の弟子となりました。
文明二年三年と続いて伯母と姉を失い、三年の五月、父蓮如上人を慕って吉崎へ来られたが間もなく病にかかり八月十四日二十六才の若さでお亡くなりになりました。
その間に、吉崎御坊の完成を見て喜び真宗の安心を得て往生しました。
上人は御文の中に「八月十五日の茶毘の暁方の夢に、白骨の中から全佛が現われ蝶になって涅槃の都へ飛んでゆくのが見えた」と記されています。

   吉崎の郷土誌による と、白骨の中より、三本の青蓮華が出生し、その花の中より一寸ばかりの黄金の仏ひかりをはなち出るを見 

   る。

   さていくばくもなく蝶となりて失せにけるほどに・・・・・・・ と書かれています。                        

 

見玉尼のお墓   見玉尼のお墓は吉崎御山にある

 

本光坊了顕 のお墓

吉崎の御山にあった多屋九坊の一つに、本向寺(足羽郡市波元の寺号本光寺)了顕の坊舎がありました。
了顕 が蓮如上人につかえていると、文明六年三月二十八日夕方南大門付近の多屋から出火して、吉崎御坊は猛火に包まれました。
上人は、親鸞聖人御親筆の教行信了顕の六巻の中信の巻を、机に置いたまま持出せなかった、これを知った了顕(三十九才)は猛火の中へ飛び入り、証教を抱えたまま壮烈な殉教の死を遂げたと伝えられています。
 京都西本願寺所蔵の教行信証信の巻は「腹ごもりの聖教」とも呼ばれ、昭和五十年六月に重要文化財に指定されました。

    吉崎の郷土誌によると、 教行信証了顕の六巻の中信の巻は、六巻のうちの証の巻と書かれています。  

 

本光坊のお墓

 

                                      

蓮如上人お手植のお花松

この古い幹の切り株は、蓮如上人が吉崎に御坊を建てられたとき御自分で植えられた松の木の根もとであると伝えられています。
天保九年(一八三八)の夏の初め、広如上人(明治四年没)が江戸へ行かれる途中、吉崎でお泊まりになり「吉崎の遺跡を拝し」と題して
    花松の みあとを訪へば 十かへりの
            春にもあへる 心地こそすれ
と詠まれたのはこのお手植の松です。
その後、元のお花松が枯れたので代替の若松を植えました。
それが成長して今のお花松になりました。

 

お花松(お手植えの松)

 

加賀の千代女の句碑

    うつむいた処が台や菫草  尼素園
千代女は、元禄の候の有名な俳人で加賀の国松任(白山市)の増屋六兵衛の娘として生まれ、長じて金沢藩の足軽福岡弥八と結婚したが、早く夫と死別した不遇の女性でした。
幼い頃から俳句をたしなみ、また熱心な浄土真宗の信者でした。
宝暦十二年(一七六二)三月二十五日に、かねてから念願の吉崎蓮如忌に参詣しをいたしました。(当時の御忌は二十五日を正忌て七日間 でした)
千代女は加州街道から、加賀吉崎の化生ヶ市に入り、遊女たちが肌もあらわに床几に腰かけてはしゃいでいるのを見て、

慎ましやかな千代女は、
    涼しさや はずかしほど ゆきもどり
                  と一句を詠みました。
ここをなんとか通抜けて吉崎御坊に詣で、御山の霊域を散策し、「けうというけう、はじめて吉崎にまうでける、そのうれしさ、ありがたさのあまり」と題して詠んだのが前記の句です。
また、御山の旧庭園跡の展望所から鹿島の森が湖面にうつる景色を見て
    鴬の どちらが鳴くぞ 水の影
    汐越の 松や小蝶の なかもどり
              の二句も残していきました。 

 

加賀の千代女   千代女の句碑

 

大蛇済度

蓮如上人像の周りの枯れ池に「蛇女」の像が立っています。・・・言われは次のようなものです。

[蓮如上人一行は中根の出口にお足を止め御観化の時、大蛇を済度され、その身の上話によれば此の東に見えるイモク山に住む猟師の女房で、生まれついての嫉妬の念深く何につけても憎しみ妬しやの念絶えず、善根功得は露塵程もなく命終るや蛇身に成り出口村に住む事八百年に至ると・・・・以下略す。    合掌]

この枯れ池には、蓮如上人像建立の時、東西両別院のもしもの火災の時に利用できるように、いつも水がはってありました。この像は噴水になっており、憩いの空間になっていました。ちなみにその水は、蓮如上人吉崎在住の折、飲み水として使用していた[七曲の道]の湧き水で、今でもその場所は防火用水として残っています。

蛇の尻尾を持つ女性像   蛇は化身

 

蓮如上人の銅像

この銅像は、東京美術学校教授帝室技術員・高村光雲(一八五二~一九三四)の作で、亀山上皇、大楠公、大西郷の銅像と共に、光雲四大作の一つに数えられています。
銅像の高さは五メ-トル・御影石の台座は約七メ-トル、昭和九年十月完成し、光暢上人が導師となって除幕式が行われました。
御在世のひび御足を偲び泣く、句佛上人銅像建設の発起者は丸岡町(坂井市)の坂井正造・笹野伊佐吉・吉崎の七郎丸勇の諸氏で今上天皇御即位の大典を記念して、越前加賀など各地の信者から多くの浄財を得て建設されました。
そのとき、東西両別院の防火用貯水池も寄進されました。

 

蓮如上人像   優しい顔の蓮如上人像

吉崎御山にたつ「蓮如上人像」、激動の昭和を知る「吉崎の象徴」となっています。

 

高村光雲作   季節で変わる蓮如像

春は桜に囲まれ、夏はすがすがしく、秋は素敵な夕焼けを浴びながら、冬は心を暖かく・・・そんな蓮如像です。

 

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