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中国の文豪魯迅との友愛で知られる「藤野厳九郎先生の昔話」

最終更新日 2018年6月14日| ページID 000900 印刷する

藤野先生の遺徳及び生誕地

魯迅と藤野先生

魯迅とは、「阿Q正伝」その他で、国際的に有名な中国を代表する文豪です。  その家の中に1枚の写真が今も置かれています。魯迅の恩師として知られる藤野厳九郎先生の写真です。
藤野先生は、明治7年に下番の医師藤野升八郎の三男として生まれ、幼少より父に漢文を習い、9歳の頃には中番にあった野坂塾で学びました。この漢学を学んだことにより、中国5千年の歴史に眼と心が開かれていったと思われます。藤野先生はその後東京帝国大学で解剖学を研究して、明治34年に招かれて仙台医学専門学校講師となりやがて教授になりました。
明治37年、清国(現在の中国)から一人の留学生が仙台医専に入学してきました。名前を周樹人(後の魯迅)といい、23歳の多感な青年でした。 この青年が藤野先生の講義をノートして、先生に提出したことから深い師弟関係が始まりました。異国の地で学ぶ魯迅に、朱筆で誤字や脱字を直しながら、偉大な隣国の学生を育てていったのです。この先生の魯迅への親切は、彼の脳裏に終生深く刻み込まれたのです。
二人の交流は今も、仙台医学専門学校解剖学教授と、中国の留学生魯迅の深い師弟関係として、異国の地で学ぶ偉大な隣国の学生を育てた話は、本荘地区で語り継がれています。
藤野嚴九郎宣誓は、学校を辞して以来、主として生まれ故郷の本荘村下番に住み、町医者として町民に親しまれていました。  

魯迅と藤野先生

藤野厳九郎碑

昭和54年5月、青園謙三郎氏が芦原町長齊藤五郎エ門氏を訪ねて、藤野先生の郷里である芦原町に先生の顕彰碑をぜひ建てさせて欲しいと、懇請して実現した記念碑があります。青園氏より要請された齊藤町長は建設を了承、さっそく町議会議長の坪田忠兵衛氏と諮り、昭和55年3月19日に「芦原町藤野厳九郎先生顕彰会」を設立しました。そして昭和55年5月28日には「藤野厳九郎碑」が建立され、除幕式が盛大に開催されました。 除幕式は、中国共産党華国鋒主席の来日に合わせて、本荘小学校児童約50名が日中両国の国旗をうち振る中、多数の来賓が参列して大勢の地元民と共に盛大に行われたのです。式典では齊藤町長が「仙台医専当時の二人の師弟愛は、日中両国の絆を一層深くするに違いない」と挨拶しました。また、魯迅の長男である周海嬰氏は、「父は藤野先生に学術、思想の面で高められました。北京の家の壁には藤野先生の写真を飾り、藤野先生の思い出話を大変愛していました。 この記念碑は日中両人民のとって誇るべき歴史の記録となるでしょう」と述べられました。
今でこそ、外国人は珍しくありませんが、当時は、中国の高官がこの小さな田舎町に来賓としてやって来るということは、大変な出来事でした。そして、このことは県内においても、国際交流の走りであったといっても過言ではないでしょう。青園氏が口火を切ってから1年にして、早くも事は成ったのです。いかに町長、議長はじめ町民の熱意が大きいものであったか、想像に難くありません。

藤野厳九郎記念碑

藤野厳九郎記念館

 昭和58年芦原町と中国の淅江省紹興市との間で締結された友好都市を記念して、藤野家遺族から三国町宿第35号14番地にあった旧居を寄贈されたので、芦原温泉開湯100周年記念祭の昭和59年7月に、「藤野厳九郎記念館」として移築されました。平成23年にあわら市文化会館横から再び移築され、今では芦原温泉街の中心である、芦原温泉湯のまち広場内(あわら市温泉1丁目203番地)にあります。

藤野厳九郎生家

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